教えのやさしい解説

大白法 521号
 
地涌の菩薩(じゆのぼさつ)
「地涌(じゆ)の菩薩」とは、法華経『涌出品(ゆじゅっぽん)』において、釈尊の久遠の開顕(かいけん)を助けるために大地より涌出(ゆじゅつ)した六万恒河沙(ごうがじゃ)の大菩薩のことです。
 これらの地涌の菩薩衆は、釈尊の久遠以来の弟子(本化(ほんげ)の菩薩)で三十二相の大威徳(だいいとく)を具(そな)え、その上首(じょうしゅ)として上行・無辺行・浄行・安立行(あんりゅうぎょう)の四大菩薩がいます。そして、これら四大菩薩に一切の地涌の菩薩が統(す)べられていますが、末法にはそれらのすべての徳を具えた上行菩薩ただお一人が出現されます。すなわち『寿量品』で久遠本果を開顕した釈尊は、『神力品(じんりきほん)』に至って上行菩薩に結要(けっちょう)付嘱(ふぞく)し、末法における法華弘通を託(たく)されたのです。
 この末法弘通を託された上行菩薩の本地は、実は久遠元初(がんじょ)自受用(じじゅゆう)報身如来です。日蓮大聖人は竜の口の法難において、垂迹(すいじゃく)上行の身を払(はら)って、久遠元初の御本仏と顕本(けんぽん)され、文底下種の大法たる三大秘法の大御本尊を建立されたのです。
 次に、文底下種の仏法における地涌の菩薩とは、御本尊の相貌(そうみょう)に明らかなように、南無妙法蓮華経日蓮の久遠元初人法一箇(にんぽういっか)の法体(ほったい)に具(そな)わるところの菩薩界なのです。
 末法の一切衆生は、客観的な機から見ると、日蓮大聖人によって初めて妙法を下種される本未有善(ほんみうぜん)の荒凡夫(あらぼんぶ)ですから、地涌の菩薩ではありません。しかし『御義口伝(おんぎくでん)』の
「今(いま)日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は皆(みな)地涌の流類(るるい)なり」(御書 一七六四)
の文に明らかなごとく、大聖人の御当体(ごとうたい)たる御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える功徳により、私たちにも地涌の菩薩の命が涌現(ゆげん)するのです。
 ただし『諸法実相抄』に、
「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(同 六六六)
と仰せのように、末法の衆生は御本尊を信ずる日蓮大聖人の眷属(けんぞく)だけが、より正確には、大聖人滅後(めつご)の今日(こんにち)においては、日興上人以来の血脈(けちみゃく)法水(ほっすい)に連(つら)なる僧俗だけが地涌の菩薩の境界を開くことができるのです。しかし、そこには自(おの)ずから総別(そうべつ)の義が具わるのであり、私たちはあくまでも大聖人の眷属たる「地涌の流類」、すなわち地涌の菩薩の眷属であるとの謙虚(けんきょ)な信心の姿勢こそが大切です。
 次に、『諸法実相抄』には、
 「末法にして妙法蓮華経の五字を弘(ひろ)めん者は男女(なんにょ)はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非(あら)ずんは唱へがたき題目なり。日蓮一人(いちにん)はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是(これ)あに地涌の義に非ずや」(同)
と述べられています。久遠元初(がんじょ)の本仏本法(ほんぽう)たる御本尊に向かって題目を一心に唱え奉り、力強く折伏を行じていくところに真の地涌の菩薩の境界が開かれるとの御指南を深く拝さなければなりません。
 今日(こんにち)、現実に末法弘通(ぐづう)という地涌の菩薩の使命を実践しているのは、日蓮正宗僧俗のほかにはおりません。御法主日顕上人猊下は宗旨建立七百五十年への出陣式において、
「妙法広布の大願をもって進む地涌の菩薩は、我ら日蓮正宗の僧俗、法華講の皆様のほかに、どこにありましょう。どこにもけっしてない、と断言するものであります」(大白法 五一七号)
と御指南されました。私たちは地涌の菩薩の眷属として、この尊い使命を自覚し、折伏弘通に挺身(ていしん)することが肝要です。